月別アーカイブ: 2009年11月

米ぬかについて


前回米ぬか散布について書きましたが、もう少々続けたいと思います。

産直センターでは毎日精米しているので、当然ながらそれなりの量の米ぬかが排出されます。以前は処理に困るようなこともあったのですが、トロトロ層づくりに励むようになってからは逆に足りないくらいになりました。廃棄しようとすれば「産業廃棄物」になる米ぬかです(実際にはぼかし肥料や飼料として利用します)が、これからも有効利用を心掛けたいものです。

そしてこの米ぬか。農業外の世界だと健康法やら美容法やらでけっこう注目されているようです。調べたところビタミン、ミネラル、鉄、マンガンなどがバランスよく含まれており、さらに紫外線対策に良い成分や抗がん作用のある成分も含んでいるんだそうな。ということで、私たちは「トロトロ層をつくる」という目的と同時に、こういった成分を田んぼに還元しているということにもなりそうですね。

食べるときにはほとんどの場合取り除かれてしまう米ぬかですが、散布することによって生きものたちが増え、土も肥えてより栄養バランスに優れたお米を収穫する。こうなるように努力していきたいものですね。(めぐ)

米ぬか散布




久しぶりに田んぼネタです。

ちょっと前になりますが、稲刈り後の田んぼに米ぬかを散布しました。散布量はだいたい120kg/10aくらいです。このあとは浅く耕起して、冬場は湛水する予定です。

さて、「生物多様性を活かした農法」でたびたび登場する米ぬかですが、今年の交流田んぼの場合だと?昨秋?春の湛水時期(5月初旬)?田植え後、の3回投入しています。同じ米ぬかですが、それぞれに投入の目的が微妙に違うので、ちょっと書いてみたいと思います。

まず?について。この時期に散布する米ぬかは、切りわらなどの分解を促進することと、冬場にゆっくり活動する微生物などのエサという意味合いが強いです。?は、水温が高まり微生物・イトミミズなどの活動が活発になるこの時期に、一気にトロトロ層を形成してもらうために散布します。そして?は代かき・田植え後になるので、雑草の発芽抑制(米ぬかが分解するときに発生する有機酸が発芽に影響を与える)とトロトロ層の再形成を促すことを目的にしています。

元々は?と?だけでいいのかな?と思っていたのですが、交流田んぼは砂質で肥料保ちが良くないので、今年はこの形にしました。これまでの経験を元に最も適した方法を探していければなあ、と思っています。(めぐ)

近藤勇 2




読みにくいかもしれませんが、米沢にお墓がある経緯はこんな感じなんだそうです。

私の年代(30代)だと数年前に放送された大河ドラマの影響などから、新撰組に対するマイナスイメージはほとんどありません。でも、この当時に近藤勇の墓を建てることは、ある意味命懸けだったんだろうなと思います。ですから官軍(明治新政府)はもちろん、人目にもつかないようひっそりお祀りしていたような雰囲気が今でも感じられます。「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉がありますが、近藤勇の墓を眺めているとその言葉の意味がよく分かる気がします。ちょっと寂しい気もしますけどね・・・。(めぐ)

ちなみに近藤勇の墓所は数ヶ所あり、会津や彼の出身地(多摩)にほど近い三鷹などにあるそうです。

近藤勇




大河ドラマから大きく脱線しますが、「幟」繋がりでこちらも紹介しておきます。

写真は米沢の住宅街にある広国寺というお寺なんですが、ここには新撰組局長として名を馳せた近藤勇のお墓があります。

ちょっと歴史に詳しい方なら「そもそもなんで近藤勇の墓が米沢にあるの?会津ならわかるけどさ・・・」とか思われるでしょうが、それについては次の写真に由来が書いてありますので読んでみてください。(めぐ)

前田慶次 2




堂森善光寺は市街地からちょっと離れているのですが、近くまでいくと幟がいっぱい立っているので目印になります。私もこの幟を頼ってたどり着きました。この幟から、本名が「前田慶次郎利貞」ということが分かりますね。

ちなみに、慶次は自分の禄を兼続の10分の1と決めていたそうで、米沢30万石に大減封されてからもそれを貫いたんだそうです。そして他にもっともっと好条件での仕官の口があったにもかかわらず、ここ米沢で静かにその生涯を終えたんだそうです。こういった男気溢れる逸話も人気の一因なのかもしれませんね。(めぐ)

前田慶次




大河ドラマの舞台もやっと米沢に移ったなぁ、なんて思っていたら、22日が最終回らしいですね。ということで、終わってしまう前に関連ネタをあげておきたいと思います。

今回は前田慶次について。大河ドラマではほとんど出番がなかったようですが、昨今の戦国武将ブームでは「傾奇者」として大人気なんだそうです。

いろいろと謎が多い慶次ですが、前田利家を水風呂に入れて出奔したのち、京都で直江兼続と出会い意気投合。大物浪人として引く手あまたの状態だったそうですが、上杉家(兼続)に仕官したんだそうです(この頃すでに結構な歳だったらしい)。長谷堂の合戦などで活躍したのち、晩年を米沢の無苦庵で過ごし、そこで生涯を閉じたそうです。が、何処に埋葬されたのか判然とせず、そこで堂森善光寺に供養塔を建てお祀りしているということなんだそうです。ということで、写真は善光寺の門を撮ってみました。どうも供養塔を撮るのは気が引けるもので・・・。ちなみにお寺には慶次グッズも売っていますよ。(めぐ)